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てんかんからみる人物の横顔~異論異説のてんかん史~

第10回 ドストエフスキー

松浦雅人

Epilepsy Vol.5 No.2, 63-68, 2011

ドストエフスキーは作品のなかにてんかんのある人物を登場させ,
発作前の前駆症状や,発作直前の前兆をみごとに表現している.

はじめに

 ドストエフスキーの小説は多くの文学者とともに,心理学者,哲学者,犯罪学者,さらには科学者をも魅了してきた.川端康成は若い作家にドストエフスキーを読むように勧め,萩原朔太郎は「僕はポオから詩を学び,ニイチェから哲学を学び,ドストエフスキーから心理学を学んだ」と述べた.科学者である湯川秀樹は「本棚に最後に残った本はドストエフスキーだった」と書き,アインシュタインも「彼はどんな思想家よりも多くのものを私に与えてくれる」と述べたという.ドストエフスキーの小説が人間存在の深い部分を洞察しているためと思われる.最近でも亀山郁夫の新訳が100万部のベストセラーになって話題を呼んだ.
 ドストエフスキーの文学とともに,ドストエフスキー自身の病跡学的側面に関する文献も多い.ドストエフスキーは「ヒューマニズムの作家」とも「悪魔主義の作家」とも呼ばれ,「進歩的な作家」とも「反動的な作家」とも呼ばれる.妻アンナの『回想』には,「良人は気の好い,寛大な,慈悲深い,正しい,無欲な,細かい思いやりをもった,人間の理想というものの体現者でした」と書かれている1).一方,古くからの友人で「ドストエフスキー伝」を書いたストラーコフは,「彼は意地悪で,羨ましがり屋で,不身持ちで,下品な行いに興味をもって,それを得意がりました.」とトルストイ宛の手紙に書いている2).二重性をもった複雑な人物であったようである.
 ドストエフスキーは若い時に死刑囚として銃殺刑の処刑場に引き出されて死を覚悟した壮絶な体験をもつ.また,『死の家の記録』に集約されるシベリア流刑体験と,『白痴』に集約されるてんかん者の世界がある.これまで村上仁,河合逸雄,荻野恒一,加賀乙彦などといった多くの精神医学者がドストエフスキーの人物について語っている.屋上屋を架すことになるが,ここでは改めてドストエフスキーのてんかんについて取り上げてみたい.

ドストエフスキーの生涯2)

 モスクワの北にある帝立救済病院の医師であった父ミハイルと,母マリアの次男として,1821年にフョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーは生まれた.同朋は兄1人,弟2人,妹4人であるが,妹の1人は夭折している.父親は気難しく,猜疑心が強く,吝嗇であったといわれるが,宗教心に篤く,教育熱心という面もあった.母親は夫に従順で,文学的才能が豊かな女性であったようで,新約聖書や旧約聖書の物語を教材に子どもたちに読み書きを教えた.
 父はドストエフスキーに,当時の手堅い職業であった工兵将校の道へ進むことを望んだ.ドストエフスキーは13歳の時に一流の私立学校の寄宿舎に入学し,16歳の時にペテルブルグの工兵士官学校に合格した.その間,ドストエフスキーが15歳の時に,母マリアが結核を悪化させて亡くなった.母の死後,父は救済病院を退職して田舎に引きこもってしまい,その特異な性格を尖鋭化させていったようである.ドストエフスキーが18歳の時,父は農奴の恨みをかって惨殺された.ドストエフスキーは後見人から多額の遺産を譲られたが,短期間で浪費してしまった.
 21歳で工兵学校を卒業したドストエフスキーはペテルブルグの工務局製図室に勤務するが,当時の若者のあいだで流行していた文学運動に熱心であった.外国作品の翻訳を行い,自らも小説を執筆し,2年ほどで工務局を退職した.25歳の時『貧しき人々』を出版し,評論家から絶賛されて華々しいデビューを飾った.しかし,次に発表した『分身』の評判は良くなかった.その頃から,ユートピア社会主義の秘密会合に参加するようになり,ロシアの国情を告発する手紙を朗読したりした.29歳の時,秘密結社の仲間とともに4月に検挙され,11月には銃殺刑が宣告された.12月に処刑場に引き出されたが,その場で死刑の執行停止と兵役勤務の特赦が読み上げられた.直後にシベリアに出発し,その後4年間をオムスクの監獄で懲役生活を送り,さらに5年間を中央アジアで守備隊の兵卒として軍務に服した.
 36歳の時,兵役勤務にあったが,人妻で息子のいるマリヤと知り合った.彼女の夫の死後に結婚したが,不和と口論の絶えない毎日であったようである.38歳の時にようやくペテルブルグへ戻り,獄中体験に基づく『死の家の記録』と『虐げられし人々』を発表して文壇に復帰した.42歳の時,病床の妻マリアを残して,活発な女子大生スースロワを追って欧州を旅するが,そこで賭博癖が顕著になり2人の関係は破局する.翌年,妻マリヤは死亡した.
 45歳の10月に,ドストエフスキーは口述筆記のために訪れたアンナと知り合い,11月には求婚する.翌年に結婚し,債権者たちから逃れて欧州へ,足掛け5年の旅に出た.最初の子ソフィアは夭折したが,48歳の時に次女リュボーフィ,50歳の時に長男フョードル,54歳の時に次男アレクセイが生まれた.ドストエフスキーの日課は規則正しく,深夜まで仕事をして,朝方に寝た.昼頃起きて体操し,化粧室で念入りに体を洗い,祈祷した.午後には濃いお茶を飲み,前夜に綴った文章を妻アンナに口述筆記させた.夕方には散歩に出て同じ道を歩いた.夜には子どもたちと一緒にお祈りをし,煙草とお茶と蝋燭の明かりで仕事をした.筆跡も几帳面で美しかった.
 55歳過ぎから肺気腫を患い,妻アンナへの手紙にも呼吸苦の記述が多くなった.57歳の時,3歳のアレクセイがてんかん重積状態にて死亡した.59歳の時,モスクワに建てられたプーシキンの銅像の除幕記念祭で,ロシアの民衆は神に選ばれた選民であるというスラブ主義を賛美する講演を行い,聴衆を歓喜と熱狂の渦に巻き込んだ.60歳の時,肺動脈破裂と思われる喀血が続いて3日後に死去した.長年にわたって苦しんだ持病のてんかんは死因に影響せず,安らかな死であったという.

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