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MY TURNING POINT

北島政樹

北島政樹

Arthritis―運動器疾患と炎症― Vol.9 No.3, 76, 2011

 昭和41年(1966年)は私の人生にとって大きなターニングポイントであったと痛感しております.医学部生活の6年間が終了し,いざ医師国家試験を目指そうとしているときでありました.6年間,学問と硬式野球生活を満喫し,10年振りの関東医科大学リーグ戦を制覇した年でもありました.しかし1年前から全国的組織で起こっていたインターン廃止闘争の学生運動はいよいよ佳境に入り,昭和41年卒業の医学生の98%が医師国家試験ボイコットを決議しておりました.私は学生時代から医師として将来の人生を密かに想像しておりました.卒業後,私が学生時代から尊敬しておりました三辺謙内科学教授(硬式野球部長)の大学院に進学し,消化器内科を専攻し,将来は留学生活を夢みておりました.

 しかし国試ボイコットという想定外の出来事は私の将来の夢を完全に打ち砕きました.
 厚生省(当時)はまず学生に対し,国試の締切の1週間延期を通達してきました.しかし教授会の切り崩し工作にもかかわらず医学生の心は動揺をみせませんでした.さらに1週間の延期を提示し,週末になるとこれが最後通告であると通達してきました.これを受け,10人前後の同級生が夜半10時頃に国試の願書を提出してしまいました.提出者の多くが内科系の大学院に進学することになりましたが,三辺謙教授からは教授室で,“半年遅れでもいいから大学院に進学しなさい”と心温まるお言葉をいただきました.当時は若気の至りで,ボイコットを破った同級生とはどうしても一緒に学問はできないと自分の心のなかで妥協ができませんでした.その後,医師免許取得者と非取得者が病院内で行き交うことになり,廊下での挨拶もなく,卒業後10年経てクラス会が開催される有様でした.
 私はインターン時代に済生会神奈川県病院で外科手術に興味をもち,一般・消化器外科学教室に入局する決心をいたしました.2年間の関連病院での研修を終了し,外科学教室に帰局するときに,またもや大きな人生のうねりを経験することになりました.すなわち,教授の権力を弱体化するための若手助手による改革運動が行われ,教室が,診療,教育,研究に三権分立され,当時の助教授,講師がそれぞれの長に就任しました.しかしこのような混乱のなかで私は自分の目的を達成するために,診療と研究を意ある仲間とともに継続してきました.その結果が学位取得,Harvard大学,Massachusetts General Hospitalへの留学につながったのだと信じております.帰国後,“誠実,努力,忍耐”を座右の銘とし,杏林大学で13年間,研鑽を積んだのちに1991年,母校の慶應義塾大学医学部外科学教室に教授として赴任いたしました.私の履歴書をみた若き医局員は25年前の国試ボイコット事件を知らず,“教授は春の国家試験に落ちている”といった話も聞いております.しかしHarvard大学留学がのちのNEJM編集委員,万国外科会長,英国王立外科,米国外科学会名誉会員などの栄誉に導いてくれたと確信しております.「禍福は糾える縄のごとし」を人生の早い時期に実体験してきたわけであります.

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