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医療と哲学

第63回「死別の悲嘆とスピリチュアリティ―グリーフケアと日本人(7)―」

島薗進

THE LUNG perspectives Vol.27 No.4, 72-75, 2019

水俣病の悲嘆のなかから生まれてきた動きには,現代日本の新たなスピリチュアリティの現れとも見なすことができるものが見て取れる.水俣病の患者や家族・支援者らの運動のなかで,慰霊の聖地が大きな意味をもつようになるのは1980年代の初めだ.1981年に,水俣の南方,鹿児島県出水市と境を接する袋地区に乙女塚が築かれた.
この乙女塚のある場所は,水俣病第一次訴訟原告の患者である田上(たのうえ)義春が1978年に農園を開いた場所である.そこに砂田明・エミ子夫妻が1981年に塚を建てた.砂田明は石牟礼道子の『苦海浄土』の第4章「天の魚」(「九竜権現さま」「海石」の二節構成)に基づき,ひとり芝居「海よ母よ子どもらよ」(劇・苦海浄土)を全国で巡演し,五五六回に及んだ(佐藤健太「文学にみる障害者像―ひとり芝居「天の魚(いを)」」(『ノーマライゼーション障害者の福祉』2007年7月号)).1928年生まれの砂田は,1970年6月に結成された「東京・水俣病を告発する会」の世話人を務め,主宰する劇団「地球座」の団員や学生らとともに「東京―水俣巡礼団」を作った.1979年には水俣の袋地区に移住し,全国巡演を続け,1993年に没している.
「乙女塚」の名は,1977年,21歳で亡くなった胎児性水俣病患者,上村(かみむら)智子を追悼する意味が込められている.上村智子はユージン・スミスの写真作品「水俣母子」で知られ,スミスの作品によって水俣病の苦難を象徴する存在として世界に知られるようになった女性である.熊本学園大学水俣学研究センター編『新版 水俣を歩き,ミナマタに学ぶ』(熊本日日新聞社,2014年)には,「乙女塚縁起より」として,次のように記されている.

正面,塚の石室には,乙女塚勧進行脚の各地水辺の真砂を敷き詰め,桐箱には,上村智子さんの遺品を中心として,水俣の縄文貝塚蛤,百間・馬刀潟(までがた)汚染以前のネコ貝,水俣川河口汚染時のブガイ,大崎ヶ鼻“竜神さん”のしらたまを納める.また,各地よりもたらされた祈念の品――広島・長崎の被曝瓦,沖縄白保のサンゴ,知床原生林のブナの切り株,南京大虐殺記念館の庭石,ミクロネシアから来訪の母親より贈られた祖貝(おやがい)などが納められている.

※記事の内容は雑誌掲載時のものです。

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