文学にみる病いと老い
第65回 「センセイの鞄」川上弘美
Pharma Medica Vol.29 No.10, 160-167, 2011
ひとり通いの居酒屋*1で37歳のツキコさんがたまたま隣あったご老体*2は,学生時代の国語の恩師だった。……年齢のはなれた男女の,飄々として,やがて切々と慈しみあう恋情を描き,あらゆる世代をとりこにした谷崎賞*3受賞の名作。
(新潮文庫本カバー裏表紙より引用)
「おひとりさまの老後」を過ごす時間が,想定外に長くなってきた。一方,結婚年齢の高齢化*4が女性の間にも,男性に限らず見られるようになっている。
上野千鶴子さん*5が世に問いかけた「おひとりさまの老後*6」では,経済的な問題や法律的な問題への配慮の重要性も指摘している。経済的基盤なくして精神の独立性なしとは,以前から言われていることである。
一方では,職を持たない年金暮らしの多くの人は,自由と時間を使いかねており,基本的に退屈*7だと思っているうちに,認知症*8が出てきたりしてしまうこともある。少なくてもよいから,心のよりどころとなる人を持っていることは,とても大切なことであろう。
一人ひとりの心がそれぞれに満たされる時間があればいい。できれば,泥沼*9にはまらないように,うらぎり*10や,金銭上のトラブル,健康まで害するほどのストレス*11,こうしたものからよい距離を保って生きている時間の小さな充実を求めるだけでよいのではないか。こういう観点に立つと,お話はリアル*12でないほうが心にしみるかもしれない。
今回紹介する作品は,年齢の差が30歳近くある老人と独身女性の物語である。作品の主人公,大町月子さんは37歳の会社員。独身で,数年前に駅前の一杯飲み屋*13で,たまたま,もうひとりの主人公のセンセイ(松本春綱,70歳近い年齢)と出会う。センセイのほうから昔の教え子であることを認識した経緯がある。
センセイはツキコさんの高校時代の国語の教師であった。ツキコさんは,恋人のいた生活もあったが,結婚までに至らぬうちに,恋人を友人に取られ,しかも,その結婚式にきちんと出席してみたり,自分の位置を測りかねているところがある。同級生と早くに結婚し破綻していた高校時代の男友達からも,恋愛模様をしかけられるのだが,センセイとのこれから紹介するような不思議な付き合いの日々の中で,同級生とは交際が発展できない自分を発見している。一杯飲み屋での酒とおつまみ*14を中心に,センセイとツキコさんの日常は,つかず離れず,静かに進んでいく。センセイの風貌*15も,背丈*16も,読み進んでもどこかあいまいで,ただ,会話の風情*17から,その人となりが浮かんでくる。70歳近いが決して老けてはいない。どういう健康状態だったか,どのような死に方をしたのか,何も語られていない。
「高く手を振る日*18」の高齢同士の交流では,女性が自分の年齢を意識していた経緯があったが,今回の作品では,37歳の女性が高齢男性の老化を感じるのは,センセイの顎の下の厚みが削られている年月を思うときと,あわび*19を噛む口元に老いを感じ,センセイが「あ」という形に口を開いたときに老いを見たという描写くらいである。あとは,風邪をひいて店に来ないセンセイを気遣って自宅まで訪れたときの不安感とセンセイの顔つきにみるやつれ*20であろうか。実際にセンセイは,山道でもすたすた歩けるのだ。よく食べるし,よく飲む。
ツキコさんも37歳のひとり暮らしでは,老人というものが実感されていない。センセイに抱いてもらいたいという気持ちも激しくはない。センセイ自身が,それをできるかどうか不安に思っているというところも,長年,女性との接触がないからという理由だけであり,決して老化したからではない。ふたりのつかず離れずの交流は言葉少なく,生理的なことや,心情的なことに深く踏み込まない分だけ,この作品はおとぎ話*21なのかという批評すら出たということである。
しかし,こんな交流があってもいいかもしれないと感じさせ,特に,この作品が中高年の男たちの間で関心を呼んだということを聞いて,なるほどと思うことである。
センセイとツキコさんの物語
『正式には松本春綱先生であるが,センセイ,とわたしは呼ぶ。「先生」でもなく,「せんせい」でもなく,カタカナで「センセイ」だ』で,作品ははじまる。
『センセイは背筋を反らせ気味にカウンターに座っていた』。まぐろ納豆*22,蓮根*23のきんぴら*24,塩らっきょう*25という注文ははからずも,はじめから一致していた。『ていねいになでつけた白髪,折り目正しいワイシャツ,灰色のチョッキ』のご老体であった。
『大町ツキコさんですね』と言われて,ツキコさんは,ようやくセンセイの昔の姿を思い出していく。センセイは,この店で何回かツキコさんをみかけて,名簿と写真で名前を確認したらしい。ツキコさんのほうは,名前を思い出せないので,「センセイ」でとおすこととした。
一回目は,センセイのおごり*26,二回目はツキコさんのおごり,三回目からは別個に支払うというやりかたで途切れずに飲み屋仲間となった。
『センセイもわたしもこういう気質だからだろう。肴*27の好みだけでない,人との間のとりかたも,似ているのにちがいない。年は30と少し離れているが,同じ年の友人よりもいっそのこと近く感じるのである』。
センセイの家にも,最後の飲み直しに上がり込むツキコさん。センセイの自宅には,汽車土瓶*28が一杯,使用後の電池*29がそれぞれ目的を記載された袋に一杯,さらには,革の大きな黒鞄が3つなどなど。物を捨てられないセンセイらしい。使用済みの電池を一つひとつテスターで測定して,『「まだ電気が残っているんですね」センセイは静かに言った。「モーターを動かすほどの力はないが,ほんの少し生きてる」』。
八のつく日に立つ市にいき,豚キムチ弁当*30を公園で食べ,「可愛いすぎないのがよい」という理由で,ひよこ*31を買い求めるセンセイである。
巨人ファンのセンセイとアンチ巨人のツキコさんの間に起こった不穏*32な時間。巨人が勝ってうれしそうに笑うセンセイ。センセイはツキコさんの巨人嫌いを知って,厭味*33を言うのを楽しんでいるようだった。それからしばらくセンセイと口をきいていないツキコさん。しかし,ツキコさんは,『センセイばかりと一緒だった。……センセイと近しくなる前は,それならば誰と一緒だったかと考えるが,思いつかない。一人だった』。でも,ツキコさんは,センセイと一緒であることのほうがまっとうな感じだと思う。
『居酒屋でセンセイに会って知らんぷりをしあうのは,帯と本がばらばらに置かれているようで,おさまりが悪い。しかし,おさまり悪いものをかんたんにおさまり良く直すのも,癪*34なのだ。癪に思うのは,センセイも同様にちがいない』。センセイとの仲直りは,仕事先近くの問屋でセンセイのために買った1,000円のおろし金*35であった。
居酒屋の主人サトルさんの誘いで行ったきのこ*36狩でも,センセイは,いつもの背広に革靴の出で立ちで,鞄を片手に涼しげな様子ですいすいと山道を登っていけるのであった。きのこ狩の道中で,センセイは,15年前に逃げた妻が,自ら食べた笑い茸*37の中毒になった話をする。『妻は困った人間だったが,ワタクシもさほど変わりがなかった。割れ鍋にとじ蓋*38といったところだと思っていたのですが。妻にとってワタクシはとじ蓋にはなれなかったんでしょうかね』とセンセイは話した。ツキコさんは聞く。『逃げた奥さまのこと今でも好きなんですか,とワタシがつぶやくと,センセイの笑い声は高くなった。妻はいまだワタクシにははかりかねる存在なんですな』とセンセイは少しまじめな顔で言ってから,また笑い出した。
正月のひとりの時間に,あれこれ思い出していると,想いをとげられなかったが,好きだった恋人に林檎(リンゴ)をむいてあげた思い出から,友人とツキコさんの恋人が結婚した経緯などを思い出し,林檎をむきながら子供のように泣き出したツキコさん。お正月になってはじめてセンセイと路上で出会い,涙を見せまいとして,また居酒屋で新年のあいさつをとりかわし,「よくできました」とセンセイに頭をなでてもらうのであった。
センセイがズボンをはこうとしてズボンにひっかかって尻を打ち,痛みを感じるために,いつもの居酒屋に心配をかけまいとして入ったおでん屋で,センセイは,ツキコさんとの交流も袖すり合うも多生の縁と言い,この多生の縁という言葉は,多く生きること,すなわち,前世から結ばれているという意味だと教えてくれた。そして,お酒をおいしく飲みながら,センセイは,時折ツキコさんの頭を撫でるのであった。
センセイは高校の現役の美術の石野先生から,お花見会に呼ばれたらしく,ツキコさんは,センセイから誘われた。花見の場所で,石野先生と談笑するセンセイに,ツキコさんはやきもち*39をやいて,そばに近づけない。そればかりか,高校の同級生だった小島孝という男性と抜け出してしまう。ビルの地下にあるこじんまりとしたバーで話をし,腕を組んで午後10時ころに地上へと出ていく。『月が,空にかかっていた。「月子の月だな」小島孝が空を見上げながら,言った。センセイならば,まず言いそうにないせりふである。センセイのことを突然思い出して,驚いた』。「疲れた,年だなあ」という小島の言葉に,またも,『センセイが自分のことを「歳だ」などと言ったことは,一度もない』と考えてしまう。すばやくキスをし誘う小島に,ツキコさんは,やめようよと言い,座ったまま,小島の顎の下の肉の厚みをみて,センセイの顎の縁を思い出し,『さらなる年月が,はんたいにセンセイの顎の下の厚みを削った』と感じてしまう。
花見から5月までセンセイと会わずに暮らしていたツキコさん。小島からの再度のデートのお誘いに乗ろうかとカットに行き,センセイと再会する。石野先生を店に連れて行ったセンセイに憮然*40としているツキコさん。センセイは,デートに行くと知って,突然,深刻な顔つきでパチンコに誘った。パチンコに集中し,真剣に景品選びをするセンセイ。チョコレートを10枚以上もツキコさんにくれた。『石野先生ともパチンコしたんですか。……え?とセンセイは言い,首をかしげた。ツキコさんこそ,あのときの男子とどこかに行ったんですか。センセイが聞き返した。え?とこんどは私が首をかしげる』。
センセイと並んで商店街を歩きながら,明日のデートは,まあいいかと,センセイとともになじみの居酒屋に行くこととなったツキコさん。
とはいっても,小島孝と5回くらいのデートを重ねて,ふたりきりで旅行に行こうと誘われているツキコさん。どこか違うと,受け入れることができないまま,センセイと居酒屋で飲んでいて深酒*41してしまう。気がつくと,センセイの家にいて,畳の上に横になっていた。『なぜわたしはここにいるんですか。そう聞くと,センセイは目をまるくした。覚えてないんですか。自分で行きたい行きたいと騒いだじゃありませんか』。ツキコさんは,センセイにふたり旅を誘うが,センセイは「どこにも行きません」と答える。ついに子供のように聞き分けのなくなっていたツキコさんは,『ききわけなんかぜんぜんないです。だってわたしセンセイが好きなんだもの』と口走った。センセイはあきれた顔でツキコさんをじっと見ている。急に鳴り出した雷鳴を怖がってセンセイの側に寄ったツキコさんを,センセイは,『「本気で怖がっているんですね」。わたしは無言でうなずいた。センセイは真面目くさった顔でわたしをじっと見つめ,それから笑いだした。「へんなお嬢さんですね。あなたは」愉快そうにセンセイは笑う。もっと側にきなさい。抱っこしてあげましょう。センセイはわたしを引き寄せた。……センセイは正座した自分の膝の上にわたしの上半身をのせ,ぎゅっと抱きしめた。センセイ,とわたしは言った。ため息のような声で。ツキコさん,とセンセイは答えた。非常に明晰な,センセイじみた声で。子供は妙なことを考えるんじゃありませんよ。雷を怖がるような人間は,ただの子供ですからね』。いつも冷静なセンセイに夢ならさめないでと願うツキコさん。センセイは,それもいいですね,と答え,静かに背中を撫でている。
ふたりは,奥さんの墓のある島に旅をする。それもセンセイから,前触れもなく誘われたのである。小さな民宿に別々の部屋をとり,センセイはいつもの鞄に旅したくを詰め込んできている。センセイは,坂の多い島をぐんぐん登り,ツキコさんは息をきらして後を追う。丘を登りきり,集落を抜けると沼があり,沼をまわると,夕暮れの光の中に小さな墓があった。センセイの奥さんの墓であった。男をつぎつぎと変え,奔放*42に生きてこの島で事故死した妻のことを,ツキコさんに向かって,『「不思議なやつでしたよ」「ワタクシは,今でもやはり妻のことが気になるんでしょうかね」』。さすがのツキコさんも,そんなことを言うためにこの島にワタシをつれてきたのかと腹をたてて,ひとりで宿に帰ってしまう。『くそセンセイがわたしを追ってこなくていまいましい』。けれども,遅れてようやく帰ってきたセンセイをツキコさんは,宿の玄関前に佇んで待ち続けるのである。
旅の宿で,ふたりで食事をしている場面で,あわびの刺身をセンセイが醤油に浸してゆっくりと噛むところがある。『噛んでいる口もとが,歳のいった人のものである。わたしもあわびを噛んだ。おそらくわたしの口もとは,まだ若い者のそれだろう。わたしの口もとも,歳のいった人のようになればいいのに。その瞬間強く思った』。
十分に食べて呑んで酔っ払ったツキコさんに,センセイは『「しばらくして落ち着いたら,お湯に入ってらっしゃい」。はあ。「そして,少し酔いをさましなさい」。はあ。「湯からあがってもまだ夜が長いようでしたら,ワタクシの部屋にいらっしゃい」。はあ,とわたしは答えなかった。かわりに,え,と目を丸くした。え,それ,どういう意味ですか。「意味というほどのものはありません」そう答え,センセイは扉の向こうに消えた』。
『「月子さんよ,期待するなかれ」つぶやきながら,わたしは自分の部屋に向かった。……浴衣に着替えて風呂の用意をしてからも,わたしは何回か,「期待するなかれ,期待するなかれ」とくり返した』。
ツキコさんが,センセイに惹かれたわけを温泉につかりながら考えた。『いつの間にやら,センセイの傍によると,わたしはセンセイの体から放射されるあたたかみを感じるようになっていた。糊のきいたシャツ越しに,センセイの気配がやってくる。慕わしい気配。センセイの気配は,センセイのかたちをしている。凛とした,しかし柔らかな,センセイのかたち。わたしはその気配をしっかりと捕えることがいまだにできない。掴もうとすると,逃げる。逃げたかと思うと,また寄り添ってくる。たとえばセンセイと肌を重ねることがあったならば,センセイの気配はわたしにとって確固としたものになるのだろうか。けれど気配などというもともと曖昧模糊*43としたものは,どんなにしてもするりと逃げ去ってしまうものかもしれない』。こうして,ツキコさんは,薄く口紅をひき,ハンカチを持って,深呼吸をしてからセンセイの部屋を訪れたのであった。
座卓*44にひじをついてビールを飲んでいるセンセイと,ツキコさんは,「静かですね」ばっかりくりかえして,ビールを飲む。開けた口のあたりに,老いを,あわびを噛むときよりも深い老いを観察してしまったツキコさん。『「眠りますか,もう」センセイが静かに言った。「はい」とわたしは答えた。ほかに,何も言いようがないではないか』。
自分の部屋にもどって寝てはみたが,夜中に目覚めて,自分の身体をさわってみたりするが,落ち着かない。思い切ってセンセイの部屋に行くと,センセイは俳句を練っている。『わたしがセンセイのことを思って悶々としていた間,センセイは蛸のことなぞで悶々としていたのである』。しかたなくセンセイと並んで俳句を作ることとなり,午前2時過ぎまでがんばったが,ついに寝入ってしまう。センセイがふとんまでツキコさんを引っ張っていき,そのまま,センセイの腕まくらで朝まで寝てしまう。センセイの気配がツキコさんに押し寄せて,ツキコさんは,素直にセンセイのふとんの中で,センセイに髪を撫でてもらい,また,『センセイの腕の中で,深い眠りにひきずりこまれてゆく。わたしは絶望する。絶望しながら,センセイの眠りから遠く離れた自分の眠りの中にひきずりこまれてゆく』。センセイとの眠りの中で奇妙な夢体験をして,ますますセンセイが不思議な存在として位置づけられ,しばらく,ツキコさんは,センセイと会うのをさけるようにもなった。
2ヵ月が過ぎ,秋になったころに久しぶりに居酒屋にいくと,センセイが風邪をひいてから店に来なくなっていることを知った。ツキコさんは,動悸*45を感じて,あわててセンセイの自宅を訪れた。孫のI LOVE NYとかいてあるTシャツを着たセンセイからお茶をいれてもらう。『「ワタクシが死んでいるとでもお思いでしたか」「思ってました。ちょっと」センセイは声を出して笑った』。
センセイと何度も言っては,それ以上言えずに家をあとにするツキコさん。『「ツキコさん」センセイが,こんどは呼びかけた。「はい」わたしは顔をあげ,センセイの顔をじっと見た。頬が削げて,髪も乱れている。目ばかりが,光っていた』。
家から出て,『よくわからないや。わたしはつぶやいて,センセイの家を後にした。もう,どうでもいいや。恋情とかなんとか。どっちでもいいや。本当にどっちでもよかった。センセイが元気でいてくれれば,よかった』。
センセイから電話でデートに誘われて,美術館に出かけ,またツキコさんは『センセイの体から,センセイのあたたかみが放射されてくる。気持ちが,また騒いだ。……センセイとこうして一緒にいることが,嬉しかった。ただ,嬉しかった』。
センセイは,自分のことをぐずだと説明し,『「島では,まだワタクシはぐずぐずと考えていたのです」……「ツキコさん,ワタクシはいったいあと,どのくらい生きられるでしょう」「ずっと,ずっとです」』。反射的にさけぶツキコさん。てのひらを包むかのようにして,センセイは,『「ずっとでなければ,ツキコさんは満足しませんでしょうか」』と聞く。『え,とわたしは口を半開きにした。……「ツキコさん」と言いながら,センセイが左手のひとさし指の先っぽを,わたしのひらいた口の中にひゅっとさし入れた。仰天して,わたしは反射的に口を閉じた」』。「ごめんなさいね」といいながら抱き寄せるセンセイ。『「そういうわけで,ワタクシと,恋愛を前提にしたおつきあいをして,いただけますでしょうか」。はあ?とわたしは聞き返した。……抱き締められて,ツキコさんは,センセイの胸の中でほんの少し泣いた』。
センセイの言うところの正式なおつきあいをはじめた。携帯は嫌いだといっても,まっこうから否定しないセンセイ。『優しみは公平であろうとする精神から出ずるように見えた。わたしに優しくしよう,というのではなく,わたしの意見に先入観なく耳を傾けよう,という教師的態度から優しさが生まれてくる。ただ優しくされるよりも,これは数段気持ちのいいことだった』。
『ひとつ,案じていることがあった。センセイと,まだ,身体を重ねていなかった。……案じているが,不満を感じているわけではなかった』。しかし,センセイは,ちょっと不安で,『「その,長年,ご婦人とは実際にはいたしませんでしたので」。あ,とわたしは口を半開きにした。センセイに指をいれられないように気をつけながら。……センセイは思っていたよりも,ふざけ好きなのだ』。
『「いいですよ,そんなもの,しなくて」「あれは,そんなもの,でしょうか」「そんなもの,ではありませんね」「ツキコさん,身体のふれあいは大切なことです。それは年齢に関係なく,非常に重要なことなのです」』。でも,センセイはできるかどうか自信がなく,もしできなければますます自信を失うだろうと,ツキコさんにあやまるのである。何も言えないでビールをつぐツキコさんに,センセイはほほえんで,それから頭のてっぺんを,いつものように,何回か撫ぜたのであった。
一度だけ,センセイから携帯をかけてきたときには,「ツキコさん本当にいい子ですね」とそれだけだった。ツキコさんから電話をすると,『「ツキコさん,今からいらっしゃい」突然センセイが言った』。急いで準備して小走りにセンセイの家まで行くと,門のところに立って出迎えてくれた先生と手をつなぎあって,八畳間に行き,『センセイが布団を敷いた。わたしは布団にシーツをかぶせた。流れ作業みたいにして,寝床を用意した。何も言わずに,センセイと布団の上に倒れこんだ。はじめてわたしはセンセイに強く激しく抱かれた。その夜はセンセイの家に泊まって,センセイの隣で眠った』。
センセイの死
ツキコさんの言葉では,センセイの最後の日々の詳細はわからない。ただ,『遠いようなできごとだ。センセイと過ごした日々は,あわあわと,そして色濃く,流れた。センセイと再会してから,2年。センセイ言うところの「正式なおつきあい」を始めてからは,3年。それだけの時間を,共に過ごした。あのころから,まだ少ししかたっていないのに』。
センセイは思ったより早く,おそらく75歳まえに亡くなったのではないか。センセイの息子さんから,センセイの鞄を形見にもらった。「父春綱が生前にお世話になったそうで」と頭をさげる息子さん。春綱というセンセイの名をきいて,ツキコさんは涙があふれそうになる。『センセイにすっかり馴染む前に,センセイがどこかに行ってしまったことを思い知って,泣けたのだ』。
ひとりぼっちになったツキコさんは,今でもセンセイと行った居酒屋に時々行くこともあるし,天井のあたりから「ツキコさん」というセンセイの声を聞くこともある。『センセイ,またいつか会いましょう。わたしが言うと,天井のセンセイも,いつかきっと会いましょう,と答える。そんな夜には,センセイの鞄を開けて,中を覗いてみる。鞄の中には,からっぽの,何もない空間が,広がっている。ただ儚々(ぼうぼう)とした空間ばかりが,広がっているのである』。
教師と教え子の遠い年月を経ての再会には,すでに意識はしていないが共有された時間が加わっている。平静心でいられる性格,自他の距離の保ち方を知っていること,しかし,年齢差にひるまない素直さ,好きだとの想いを育成していく忍耐強さ,などなど,ふたりの物語には,優しい知性,情操といった基本的なものが備わっている。これらは,ないものねだりであることも現実には多く,それだけに,多くの読者をひきつけたのだろうと,私は考えてみたい。
『……』は本文中から引用した。
文=長井苑子・注記=泉 孝英
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※記事の内容は雑誌掲載時のものです。