1987年に発表された村上春樹の『ノルウェイの森』(講談社)には,阿美寮という療養所に入所しているレイコという38歳の女性が登場する。阿美寮は京都市内から北へバスで1時間ほどの山中にある精神科の療養所で,そこではほぼ自給自足の生活をしながら,患者と治療者が仲間としてお互いに助け合うコミューンのような先進的な医療が行われていたのである。
そもそもレイコが最初に精神変調をきたしたのは音大の4年生の時だった。4歳でピアノを始めてからピアニストになることだけを考えて生きてきたレイコは,コンクールで優勝し,音大でもずっとトップの成績をとるなど,「一点の曇りもない青春」を送っていた。ところが,ある大事なコンクールの練習中に,「突然左の小指が動かなく」なったのである。マッサージをしたり,お湯につけたり,2,3日練習を休んだりしたが,全然効き目がない。病院で検査をしても,医者は「指には何の異常もないし,神経もちゃんとしているし,動かないわけがない」と言うばかり。精神科へも行ってみたが,そこでも「コンクール前のストレスでそうなったんじゃないか」,「とにかく当分ピアノを離れて暮しなさい」と助言するだけだった。
そのためレイコは,コンクールを諦めて2週間ほどピアノに触らずに好きなことをして遊ぼうと思ったが,「何をしても頭の中にピアノのことしか浮かんでこない」。それまでピアノが人生のすべてだったレイコは,「一生このまま小指が動かないんじゃないだろうか?もしそうなったらこれからいったいどうやって生きていけばいいんだろう?」と,同じことばかり考えてしまうのだった。