当院は埼玉県さいたま市岩槻区にあります.曽祖父の代から4代続く医院で,父の代で小児専門医院となってからは多くの子どもたちの成長を見守り続けてきました.
私は1977年に日本大学医学部を卒業し,大学の小児科で研修を受けた後,全国で5番目の小児病院として岩槻に開設されることとなった埼玉県立小児医療センター(以下,小児医療センター)の建設準備室に配属となり,設備計画からスタッフの確保,指導など,立ち上げに必要なあらゆる業務を経験しました.
その後,未熟児新生児科(現,新生児科)に所属して2年が過ぎたころ,父ががんで急逝したのです.岩槻の小児科医院は不足しており当院を閉めるわけにはいかず,1984年の冬,30歳で父の跡を継ぐことを決断しました.
モニターだらけの新生児集中治療室(NICU)から一変して,一般診療や健診,予防接種が診療の中心になりました.そのため,改めて一から学び直す気持ちで医学書を何冊も熟読し,小児医療センターが主催する研究会をはしごして参加するなど,必死に勉強をした記憶があります.
勉強を続けていくうちに,徐々に診療に自信が持てるようになっていくと,小児医療センターの未熟児新生児科の先生方から,退院後の子どもたちを診る連携先として声をかけていただくようになりました.未熟児新生児科は,外科的治療も含めあらゆる臓器の診療を行う横断的な科です.退院後の子どもたちを診ることで,地域の開業医としての対応力も身についていったように思います.
私は1977年に日本大学医学部を卒業し,大学の小児科で研修を受けた後,全国で5番目の小児病院として岩槻に開設されることとなった埼玉県立小児医療センター(以下,小児医療センター)の建設準備室に配属となり,設備計画からスタッフの確保,指導など,立ち上げに必要なあらゆる業務を経験しました.
その後,未熟児新生児科(現,新生児科)に所属して2年が過ぎたころ,父ががんで急逝したのです.岩槻の小児科医院は不足しており当院を閉めるわけにはいかず,1984年の冬,30歳で父の跡を継ぐことを決断しました.
モニターだらけの新生児集中治療室(NICU)から一変して,一般診療や健診,予防接種が診療の中心になりました.そのため,改めて一から学び直す気持ちで医学書を何冊も熟読し,小児医療センターが主催する研究会をはしごして参加するなど,必死に勉強をした記憶があります.
勉強を続けていくうちに,徐々に診療に自信が持てるようになっていくと,小児医療センターの未熟児新生児科の先生方から,退院後の子どもたちを診る連携先として声をかけていただくようになりました.未熟児新生児科は,外科的治療も含めあらゆる臓器の診療を行う横断的な科です.退院後の子どもたちを診ることで,地域の開業医としての対応力も身についていったように思います.