<< 一覧に戻る

Think about Pain

慢性疼痛と脳 第5回

半場道子

Practice of Pain Management Vol.2 No.4, 30-40, 2011

前号まで
 大震災後の日本に必要なのは,ひとりひとりのresilience である.連載④ 1)では,「希望」や「期待」をもつことで脳内活動が大きく変化し,生命機能や精神活動が活性化することをplaceboを例に挙げて述べた.たとえ小さな希望/期待であっても,報酬回路2,3)が刺激され→快の情動→行動→期待のサイクルが循環しだすと,生命活動や創造意欲が盛んになる.
 辺縁系,大脳基底核,中脳の神経回路網など,ほとんど意識に上らない潜在的な脳の働きが,機能的脳画像や脳内物質の変化として解析されている.痛みによって活性化するdopamine systemとopioid system,下行性痛覚抑制系や下行性痛覚促進系との相互作用を示した.末梢組織から脊髄後角を経て上行する侵害信号が,そのまま「痛み」として感じられるのではなく,上位脳から下行性痛覚抑制もしくは痛覚促進の修飾を受け,その総和が痛みの大きさとなる.

最終回にあたって

 脳は日常のあらゆる場で,膨大な情報を認知し処理しているが,その活動のほとんどは意識に上ることはない.われわれは自分の脳で考え,自分の意思で行動したつもりでいるが,創造性や意思決定の土台も,辺縁系に基盤をもつ無意識下の脳プロセスで生まれる4).辺縁系・大脳基底核,中脳など,古い脳器官の潜在下の活動と慢性疼痛との関係を探ってきた本連載も,終りに近づいた.
 今回は恐怖や不安など,意識上の「負の情動」と痛みについて,情動と本能行動の統合中枢である扁桃体を取り上げる.後半では,不安,怯え,怒りなどの心理や,雇用不安などの社会的要因がなぜ慢性疼痛を増悪させるのか,神経回路上で探ることにした.連載5・6回は内容的に分割が難しいため,編集部の許しを得て長文のまま掲載させていただくことにした.
 生体は長い進化の過程で,生存を脅かす有害なものに対して負の情動を発達させ,生命を守ってきた.痛みは「苦」「不快」として強烈に記憶固定されたからこそ,危険を忌避させる役割を担ってきた.しかし,恐怖や不安など過剰な負の情動は中枢性鎮痛機能を低下させ,慢性疼痛へ転化させる引き金になる2,3).それだけでなく,不安障害など精神状態の悪化5)という別の問題をも派生させている.精神状態の悪化があれば,疼痛はさらに複雑な様相を呈し,治療の難しい負のスパイラルに入る.負の情動と痛みの関係を探ることは,今や社会的急務となっている.

1 痛みは「苦」「不快」をともなう

 痛みは,不快で,ぞっとするような厭な感覚である.痛みには,どこの部位がどのように痛むかという局在や性質を弁別する感覚的要素のほかに,恐怖や不安など負の情動,拷問感のような「苦」の要素が含まれる.骨折したときに,「血の気が引くような,悪魔に奈落の底に引きずりこまれるような激痛だ」と呻いた男性がいた.痛みにこのような拷問感,業罰感を付加しているのは負の情動である.
 動物は進化の過程で,生命維持のために情動を発達させてきた.生存を脅かす有害なもの(たとえば肉食獣,痛み)には,本能的,直観的に恐怖感を抱き,これを罰(不快)として記憶し,嫌悪,忌避行動をとって命を守った.生存に不可欠なエサ,水,交尾対象や群れの仲間には,報酬(快)と評価し接近行動をとった.自然界におけるサバイバルは,忌避行動と接近行動のバランスのうえになり立っている.予定していた報酬が得られなければ,怒りや不快の反応となり,水やエサが期待/予測を上回れば,大きな喜び,快の反応となる.快・不快,恐怖,嫌悪,怒り,喜びなどの情動は,個体の生存や種の保存を図るうえで,重要な役割を果たしてきた.
 扁桃体(Amygdala)Box 1 は不快,恐怖,不安,怒りなど,負の情動の発現に中心的な役割をしている6).恐ろしい事故や殺人事件に遭遇したとき,猛り狂った大型犬に飛びかかられたときなど,顔面蒼白となって全身の震えやフリージングが起き,恐怖の情動表出注1となる.このとき扁桃体興奮の出力をうけて,視床下部では自律神経系が活動し,下垂体ではホルモンが分泌され,脳幹網様体や脳神経運動核では筋運動の調節が行われる.喜び,怒り,悲しみなどにも,それぞれ定型的な情動表出が起きる.扁桃体は情動と本能行動の統合中枢として機能している.
 ヒト社会には肉食獣の脅威はない.しかし,職場のリストラや,承服しがたい左遷はある.苦手な上司もいる.扁桃体は他者の侮蔑や怒りの表情,凝視にも敏感に反応する7).他者との関係が喜怒哀楽の形成に影響し,忌避行動と接近行動のバランスのうえで生きていることは野性時代と変わりない.大震災,放射線被曝,激動のグローバル経済下でサバイバルゲームを続ける現代は,肉食獣が去れば恐怖から解放された野性時代より,はるかに苛酷な心理・社会的ストレスに晒され続けている.
 扁桃体は嗅球・嗅索の近く,脳の底辺に位置している.野生動物の行動は主に嗅覚情報をもとに選択されており,肉食獣や天敵を避ける忌避行動も,エサや異性を求める接近行動も嗅覚情報に基づく.ヒトでは嗅覚はとうに退化したが,扁桃体は野性時代の名残りをとどめる位置にあり,腐敗臭などを忌避し吐き気を催す.
 扁桃体には,生きるために必要な原始的感覚(嗅覚,侵害情報,触覚,内臓感覚,視覚,体温感覚,味覚,聴覚など)がすべて入力される.これらの感覚情報に対し,扁桃体は過去の経験や記憶に基づき,有害=不快情動か,有益=快情動かの評価を下し,記憶の固定にかかわる.
 そのなかでも侵害情報は,身体が侵襲されたという「命の一大事」を知らせる警告信号である.扁桃体は本能行動を起こすとともに,恐怖・不安感や拷問感を付して情動記憶の回路に送る.痛みが恐怖・不安感とともに,「苦」「不快」として強烈に記憶固定されたからこそ,痛みを感じた瞬間,体の動きをピタリと停止して身構えるし,熱いもの,鋭利な刀先などには本能的な怖れを感じて忌避する.負の情動が生命維持のために果たしてきた役割は大きい.
 しかしながら,慢性疼痛においては負情動の過剰が「苦」を増幅する.強いストレス反応が起きているとき,恐怖や不安に駆られているとき,扁桃体,内嗅皮質(entorhinal cortex)などには異常な活動が起きる.この暴走を容易に制御できるほど,前頭皮質の「理性」や「意思」による抑制は強くない.そしてmesolimbic dopamine system 機能に影響を与え,中枢性鎮痛機構を低下させ,意欲減退やうつ状態をまねいてしまう.
 第2項では,侵害情報が扁桃体に投射する経路を示し,扁桃体経路に異常な興奮が生ずると,「苦」の長期増強につながるという最近の研究を紹介する.第3項では不安,怒り,職場や家庭のストレスなど,負の情動がなぜ慢性疼痛を増加させるか,神経回路のうえから検証する.

Box 1
 扁桃体は機能の異なる複数の亜核からなる神経核で,系統発生的に古い皮質内側核と中心核,比較的新しい基底外側複合体の3つに大別される.基底外側複合体(外側核,基底核,副基底核)は,恐怖条件付けで知られる.外側核に生じた信号が中心核に送られ恐怖反応を発現させる.このときの外側核シナプスの可塑性が,情動記憶に関係すると考えられている.扁桃体は対象の情動的評価にかかわっており,それに必要な感覚性情報は,大脳皮質感覚野,視覚野,聴覚野,視床,嗅球から送られてくる.扁桃体の出力は,中心核から視床下部,脳幹網様体,脳神経核へ送られ,呼吸・脈拍の増加や,ストレスホルモンの分泌,フリージングなどの情動表出を起こす.扁桃体の情動的評価は,海馬,内嗅皮質,前頭皮質,島皮質,帯状皮質,視床背内側核,大脳基底核など広い領域に投射されるので,認知機能,記憶,感情,精神活動にさまざまな影響を及ぼす.


注1:喜びや怒りなど主観的感情を抱くときは,定型的な表情や身体反応をともなう.これを情動表出(emotional expression)といい,主観的感情と情動表出を合わせて情動(emotion)と呼ぶ.情動には3つの過程があるといわれる.

 ①対象物が有益(報酬)か有害(罰)か,直感的に評価する過程

 ②評価に従って,自律神経系や内分泌系の反応,表情,姿勢,運動系の反応が起きる過程

 ③情動表出とともに喜び・恐怖・怒りなどの主観的感情や快・不快感を体験する過程
である.

2 侵害情報は扁桃体に長短の経路で投射される

 さきほどの骨折した男性の呻き,拷問感のある「血の気が引くような,奈落の底に引きずりこまれるような激痛」は,どのような投射経路で生じたのだろうか.
 侵害情報は,精緻で高度な局在性を有する「速い体性感覚投射経路」2)によって大脳皮質体性感覚野に投射され,どこの部位がどのように痛むか,速やかに分析される.脊髄後角(あるいは三叉神経脊髄路核)→視床(腹後外側核および視床髄板内核・後核群)→大脳皮質体性感覚野,の経路である(図1:緑線)8).

記事本文はM-Review会員のみお読みいただけます。

メールアドレス

パスワード

M-Review会員にご登録いただくと、会員限定コンテンツの閲覧やメールマガジンなど様々な情報サービスをご利用いただけます。

新規会員登録

※記事の内容は雑誌掲載時のものです。

一覧に戻る