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大震災後のよりよい医療の復旧・復興を目指して

東日本大震災以後の当院

Our hospital after the Tohoku earthquake and tsunami

金澤幸夫

Surgery Frontier Vol.18 No.4, 39-43, 2011

Summary
 3月11日の震災,津波により,人口約71000人の南相馬市では死亡者633人,行方不明者33人の人的被害を受けた。その後の原発事故により,人口は一時約1万人にまで減少した。当院は原発より23kmに存在し,3月18日に入院患者の避難指示を受け,3月20日には入院患者は0人となった。その後,4月22日に緊急時避難準備区域に指定され,子ども,妊婦,要介護者,入院患者はこの地域への立ち入りが禁止された。5月19日より脳外科に限り5床,72時間以内,6月20日には診療科に制限のない70床の短期入院が認められた。しかし,この入院規制と医療圏の人口の減少にともない,市内の病院では医療収益が激減し経営は困難となり,医師,看護師も減少し医療崩壊の状態となった。現在,当院では救急医療の維持,およびこの地域での生活が安全であることを示すべく,ホールボディカウンターによる内部被曝検診を主な業務として市の復興に寄与したいと考えている。

Key Words
東日本大震災,東京電力第一原子力発電所事故,屋内退避,緊急時避難準備区域,ホールボディカウンター(WBC)

 2011年3月11日,午後2時46分,地震発生,建物の損傷はあるものの軽微で,電気,水道,ガスなどのインフラは無事であった。午後3時37分,大きな津波が南相馬市の海岸線を襲った。その後,津波に巻き込まれた患者が多数救急搬送されてきた。CPAは7名で,入院患者は22名,このうち3名が嚥下性肺炎で亡くなった(表1)。

3月12日,3名の入院患者があったのみで,震災,津波による当院の混乱は落ち着いた。8月21日現在,南相馬市の震災による死亡者は633人,行方不明者は38人で福島県内では最大の人的被害を受けた。
 3月12日夕方,帰宅したが,午後7時ごろ,電話が通じないため病院職員が直接車で迎えにきて,また病院に戻った。3月12日,午後3時36分,福島第一原発,1号機建屋の水素爆発が起こったとのことで,病院内は混乱していた。当院は原発より23kmの地点にあるが,20km圏内には避難指示が出ていた。主に小児,産婦人科,整形外科で,若くて,退院可能な患者は退院の方針として,そのほか転院を希望する患者は急ぎ転院先を探すこととした。この結果,63名が退院し,入院総数は148名(全病床数230床)となった。午後8時より放射線濃度の測定を開始した。病院外で12μSv/h,病院内で2.3μSv/hであったが,このときがピークで徐々に低下し,3月末には病院外で1μSv/hを切った。副院長及川友好先生の発案で,情報の一元化を図るため午後11時40分に1階エレベーターホール近くに院内防災センターを設置した。3月13日,20km圏内に位置する南相馬市立小高病院に対しては避難指示が出ており,68名の入院患者が当院へ転院し,入院患者は197名であった。
 3月14日,午前8時30分,リハビリ室で職員の意志統一のため,第1回目の全体会議を行った。午前11時1分,3号機建屋水素爆発の報道があり,11時15分,緊急の全体会議を行い,避難するか,病院に残るかは自己判断するように告げた。院内防災センターは,放射線濃度が最も低く,コンクリートで遮蔽された2階エレベーター前に移した。避難指示が出るまでは病院機能を維持して,ここで籠城の気持ちだった。正面玄関を閉じ,窓も閉じ,出入りは救急入り口のみとし,病院に入る人はすべてガイガーカウンタにより放射性物質汚染の有無を調べた。3月12日~14日まで10人以上の人が10万CPMを超えていた。記録の残っている3月14日の結果を表2に示した。

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