患者から医師へのシグナル
京都の母と慕われて
THE LUNG perspectives Vol.26 No.1, 98-101, 2018
私は昭和9年に京都で生まれてからずっとこの地で日々を過ごしてきました。現在住んでいる自宅の窓からは京都を代表する鴨川が一望でき,とても穏やかな時間が流れていますが,これまでの自分自身の人生を振り返ってみますと,それはいささか波乱万丈なものでした。
お香や書画用品を扱う鳩居堂に務めていた父のもと,私は7人兄妹の下から2番目として生まれました。父はとにかく真面目で厳格な人で,私を含めて子ども達は厳しく育てられました。その中で私は少し異端児の道を歩むことになります。思いもよらない転機が訪れたのです。小学校の高学年の頃に腸閉塞で入院したのですが,偶然にも隣のベッドにお茶屋の女将さん(おかあさん)がいたのです。お話しをするうちに,「舞妓さんにならへんか?」と思いがけない言葉をかけられました。芸事を嗜むような家庭でもなく,私自身も例に漏れず踊りはもちろん,茶道や華道も習っていませんでしたが,本来は芸事が好きだったのでしょうね。「なってもええかな」と思い,女将さんの勧誘の言葉に「なりたい」と答えました。当然,両親の猛反対を受けましたが,反対を押しのけて舞妓さんになる道を選択しました。小学校を卒業後,中学校に通いながら女将さんの元で,仕込みさんとして舞妓さん修行に励むことになったのですが,美味しいものを食べたかったら,舞妓さんになってお客さんに食べさせてもらいなさい,という女将さんの考えのもと,食事はとても質素なものでした。日々の修行もとても厳しく,涙を流しては「もう帰ろうかな」と何度も思いましたが,自分で決めたことだと言い聞かせて何とか修行を乗り切り,16歳で「吉廣」という名前をいただいてお店だし。舞妓さんとしてお座敷にあがらせてもらいました。そして19歳で襟返をして芸子さんを3年程続けた後に引退。芸の道からは退いて結婚し,娘を授かりました。
※記事の内容は雑誌掲載時のものです。