<< 一覧に戻る

周術期の代謝栄養管理─ERASプロトコールを巡って─

術前補水と炭水化物負荷

Preoperative fluids and carbohydrate loading

岩坂日出男

栄養-評価と治療 Vol.29 No.2, 23-26, 2012

SUMMARY
術前補水は従来の長い飲水制限による術前脱水を補正し,麻酔薬に伴う低血圧を改善するための輸液を減少させることができる。炭水化物負荷は,術前絶食によって生じるインスリン抵抗性を中心とした代謝変動を改善することが可能である。術前補水として炭水化物補水を実施することは,誤嚥リスクを高めることなく脱水補正と同時に代謝変動も改善できる重要なERASプロトコールの1つである。

KEY WORDS
■術前補水 ■炭水化物負荷 ■炭水化物補水 ■インスリン抵抗性 ■術前脱水

Ⅰ はじめに

 術後回復力増強(Enhanced Recovery After Surgery;ERAS)プロトコールは,多職種参加による多種目プロトコールの集学的治療による手術患者の回復力を高めるためのプロトコールである。ERASプロトコールを形成する多くの項目のなかでも,硬膜外麻酔の併用,炭水化物負荷,過剰輸液の抑制は予後を左右する重要な項目と考えられている。これまで当然と考えられていた術前の長い絶飲食時間を見直すだけでなく,術前補水として炭水化物負荷を行うことが重要であると,ERASプロトコールでは指摘している。術前補水としての炭水化物補水は誤嚥の発生率を高めることなく,安全に飢餓,手術侵襲に伴うインスリン抵抗性亢進,異化反応などを減弱することが可能と考えられる。そこで,周術期の代謝栄養管理で重要な項目の1つである術前炭水化物補水について概説する。

Ⅱ 絶飲食時間の改善

 エーテル麻酔による麻酔法の発見当初から,麻酔前の食事摂取による誤嚥が麻酔事故と関連することが報告されている。手術前に絶飲食時間が必要とされる理由は,胃内容物の逆流により気管が閉塞されることや,誤嚥性肺炎が誘発されるという麻酔に伴う重篤な合併症を防ぐことにある。麻酔を行うことによって胃・食道逆流防止機構が弱くなり,胃内容物が口腔内へと逆流しやすくなる。さらに深麻酔・筋弛緩により嚥下反射は消失し,喉頭は動かなくなるため,口腔内へと逆流した胃内容物は容易に気管内へと流入する。このため胃内容物による気管閉塞や誤嚥性肺炎が生じやすくなる。したがって,これらの危険性を避けるために絶飲食時間を確保することが麻酔導入前に必要となってくる。しかし,現在では胃内容物の逆流による誤嚥性肺炎を防止するには,従来のような長時間の絶飲食時間は必要ではないと考えられている。
 米国麻酔科学会のガイドラインでは,通常の食事は麻酔導入の8時間前までとしているが,トーストのような軽食は6時間前まで,水,紅茶,ブラックコーヒーなどのクリアウォーターは2時間前まで飲水可能としている1)。ほかの多くのガイドラインでも,2時間前までの飲水は誤嚥の可能性を高めることはなく安全であるとしている。従来の長い飲水制限の場合,最終経口摂取から輸液開始時点までは水分バランスがマイナスとなるため,麻酔前脱水を麻酔中の輸液で補う必要があるとされてきた。しかし,過剰な輸液は腸管の浮腫をもたらし,回復を遅らせることに通じる。このためERASプロトコールではナトリウム負荷を行わないこと,輸液制限を行うこととしている。近年のガイドラインに従い,従来よりも絶飲水時間を短くすれば,麻酔前脱水を補正する輸液は術中ほとんど考慮する必要がなくなり,過剰輸液の防止につながると考えられる2)。
 本邦では,いまだ術前絶飲食のガイドラインが制定されていないが,他国のガイドラインに準じて旧習を改め,術前2時間前までの自由飲水を許可することで,無駄な術中輸液量を削減することが可能と考えられる。

Ⅲ 術前絶食と炭水化物負荷の代謝への影響

 手術に備えるための長時間の絶食はこれまで当然と考えられてきた。しかしマラソンなどほかの種類の生体へのストレスと同様に,生体のストレスへの準備としてはふさわしくないと考えられるようになってきた。動物モデルでは6~24時間の絶食後では,出血やエンドトキシン血症への耐用性が低下することが示されている。対して,食事を摂取した動物モデルは,絶食時と比較して外傷に対する過剰なストレス応答を示しにくくなり,糖代謝はより同化作用を示し筋力も保たれる。これらの知見から,臨床においても長い絶食時間をとどめ,炭水化物負荷を行うことが術後代謝に好影響を及ぼす可能性が考えられた。
 また,従来の絶食時間に比較して一晩5mg/kg/分の糖輸液を受けた上腹部開腹術患者では,手術で生じるインスリン抵抗性が50%減弱することが明らかとなった3)。同様のインスリン抵抗性の減弱が,関節形成術の2~3時間前の静脈内ブドウ糖とインスリンの投与や,12.5%の炭水化物補水を行うことにより結腸手術や股関節置換術で確認されている。手術侵襲によりストレスホルモン,炎症性サイトカインの分泌からのストレス誘導性高血糖(外科的糖尿病)が生じてくる。この機構には手術に伴うインスリン抵抗性の増加が関係している。インスリン抵抗性は合併症のない開腹術で術後3週間程度持続すると考えられており,この手術に伴うインスリン抵抗性の増加は糖尿病の有無に関係なく,周術期合併症の増加につながってくる4)。手術時のインスリン抵抗性の増加はⅡ型糖尿病の病態と類似し,糖取り込みの減弱,インスリン刺激に対する糖輸送たんぱく質4型(GLUT4)の細胞内輸送の低下,グリコーゲン合成反応の低下と糖新生の増加などが生じる。これに対して炭水化物負荷を行うことで,表1に示すように長い絶食時間によって生じる代謝の変化を改善できると考えられる。

記事本文はM-Review会員のみお読みいただけます。

メールアドレス

パスワード

M-Review会員にご登録いただくと、会員限定コンテンツの閲覧やメールマガジンなど様々な情報サービスをご利用いただけます。

新規会員登録

※記事の内容は雑誌掲載時のものです。

一覧に戻る