「家業の鋳造業は人を助けたことが契機に.原点になった大学時代の無医村活動」
──先生は家業が鋳造所という環境で育たれたのですね.
「僕は多田家にとって70年ぶりの男子だったんです.だから曾祖父に大変かわいがられた記憶があります.家業は職工さんが20人ぐらいの鋳造所で,『梵鐘』『獅子鐘』なんかも作っていました.ニューヨークの国連本部の『平和の鐘』は当時の松山市長の依頼で曾祖父が作ったんですよ」
「どうして家業が鋳造になったかというと,四国はお遍路さんってあるでしょう? お遍路さんは外からの文化を入れる役目を果たしたんですね.だから四国には,外から来た人を大事にするという県民性があるんです」
「うちはちょっとした旧家で,あるとき,お遍路さんが来て,倒れたんだそうです.その人は京都で釣鐘を作っていた人で,介抱してあげたら大変感謝されて,技術を全部教えてくれることになって,それで釣鐘を作り始めたらしいです.釣鐘と医学には関連性はないですが,よく考えると,人を助けたことがきっかけで家業が始まったわけですから,医学を志したのは外れてはいないのかな」