私は学生時代に“インターン制度反対”に加えて,“医局批判”,“教授批判”運動に熱中しすぎました.1年間のインターン終了後,友人から「ほとぼりが冷めるまで」と勧められ,当時中ノ島地区にあった阪大病院を離れて千里地区の微生物病研究所で大学院生活を過ごしました.4年後,教授が空席だった整形外科に医局長許可で入局したものの長くいることは難しいと,早期の独り立ちを考えて初期研修時代から外傷救急に熱中しました.数年後,整形外科外傷救急は対応できるという自信をもって開業の具体的な計画を進めていましたが,結核性胸膜炎で入院休養することになり,やむなく計画を中止しました.入院中に阪大整形外科の新教授,小野啓郎教授から「大学に戻って,体調を整えなさい」と言っていただき,翌年夏から大学に異動しました.七川歓次先生が滋賀医科大学教授へご栄転されたあとで,医師不足だったリウマチ診療に加わるように命じられ,気乗りがしないまま始めたのが私のリウマチ診療のスタートでした.
1979年に,たまたま七川先生から「君,日本リウマチ協会(現在の財団)の欧米派遣に応募すれば」と言われました.「駄目です.医師が手薄なので留学などできません」と言うと,「応募しても数年は通らないよ.5年くらい先に行こうと思ったら,今から毎年応募していれば良い」と言われたため,5年くらい先であれば一度行ってみたいと考え,応募することにしました.すると,数ヵ月後に事務局から「今年度の派遣に決まりました」との電話がありました.「すぐは無理です.5年くらい先と言われて応募したので」と説明しても,「派遣補助金が出ましたので,今年度中に日本を出てください」と言われ困りました.そんなとき,神戸大学の故 広畑和志教授が「君,行くところがないのならテキサス大学のジフ先生を紹介してあげるよ」と助け舟を出してくださいました.
私はここで初めて本当の(膠原病も含めての)リウマチ学を学びました.ジフ先生は回診の折などに,実に明快に症状の特徴を説明し,鑑別診断,治療方針を示してくださることもあり,しばらくいると,すっかりリウマチ学が面白くなっていました.“Just looking”と訪れていた私にジフ先生は「アメリカ人フェローと同じ待遇にするからもう少しいなさい」と言ってくださり,結局,2年間学ぶことになりました.「私は整形外科医なので…」とお願いすると,アメリカの整形外科学会(AAOS)参加も出張扱いにしてくれました.手の外科,膝の外科手術見学に,毎週の日程として出かけることも黙認していただきました.そして経験のなかった細胞免疫の研究をしてJCIの論文も作らせていただきました.2年間の学会活動実績ということで会員にしていただいたアメリカリウマチ学会(ACR)には,帰国後も毎年演題を持って参加しました.ジフ先生は私の発表のときには必ず来てくださって,実に的確なアドバイスをくださいました.本当の先生でした.私が夢を持ってリウマチ診療ができるようになったターニングポイントでした.
大阪警察病院病院長
越智隆弘
筆者略歴
1966年大阪大学医学部卒後1年間インターン
1967~1970年大阪大学大学院
1970年大阪大学整形外科入局,関連病院勤務
1977年大阪大学整形外科助手
1990~2003年大阪大学教授
(2001~2003年大阪大学医学部長)
2000~2007年国立相模原病院
(臨床研究センター長併任後,院長)
2007年~大阪警察病院院長(現職)
日本整形外科学会;2003~2005年 副理事長,
2005~2007年 理事長
日本リウマチ学会;1999~2005年 理事長